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私たちの罪

こんにちは、鈴木睦子です。

前回と、前々回の二回に亘り、伊藤先生が凄まじい浄化を通られる中、先生の傍らで私が見つめてきたものについて、お伝えしてきました。
 壮絶な浄化(1)→http://lyrasantih.blog54.fc2.com/blog-entry-1089.html
 壮絶な浄化(2)→http://lyrasantih.blog54.fc2.com/blog-entry-1090.html

前回は、サポートを求めた精油のスペシャリストの数々の暴言をきっかけに、先生の苛酷な浄化が、私には、キリスト受難と重なってくるように感じられたことについて、お伝えしました。

しかし、キリスト受難を思い起こさせるような出来事は、これだけではありませんでした。リラ・アカデミーの内側では、イエス・キリストが十二使徒によって受けた裏切りを彷彿とさせるようなことが、起こっていたのです。今回は、この出来事から私が何を感じ、何を思ったのかについて、お伝えしたいと思います。

9月の中旬以降、先生の体調がどんどん悪化していく中、リラで学んでいる生徒たちが、先生が浄化に苦しまれているという事実から逃避し始めました。そして、彼らの心ない在り方が、次々と露呈していったのです。

例えば、カルマ清算コース受講生たちの交流の場であるコミュニティブログでは、「浄化は必要なこと」「全く先生のおかれている状況が理解できない」「先生を無視するつもりはないのに、無視してしまう」「自分にとって先生を失うということは、情報源が消えてしまうという意味」「先生はすごい人なんだから、きっと大丈夫という意識があった」「先生の体調が悪いということが受け入れられなくて逃避した」など、酷いコメントが並びました。

先生の状況が、その都度生々しく伝えられている中で、殆どの生徒が、苦しむ先生を自分たちのカルマ清算の内観教材にしたのです。

それだけではなく、交流会や勉強会などでリラを訪れた生徒たちは、扉の向こうで先生が苦しんでいるにもかかわらず、先生の容体に無関心で、まるで何事も起こっていないかのように振る舞うのでした。

コミュニティブログで発される彼らの言葉や在り方を目の当たりにする度に、私の中には沸々と怒りが湧いてきて、身体が小刻みに震えるほどでした。

挙句の果てには、自分たちの在り方が先生に追い打ちを掛けているのに、ほんの少し先生の体調が上向いたとの知らせには、「ホッとした」「良かった」など、先生の浄化と集合意識の関わりをまるで理解しようとしていない、安易で偽善的なコメントが並ぶのでした。

先生の浄化が、私たち集合意識の影響によるものであることを、再三にわたって伝えられているにも関わらず、全く先生の状況に寄り添おうともしないこれらの言葉は、苦しみの渦中にあった先生にとって、まるで、衰弱した心身に暴力を加えられているのに等しいものでした。

先生は、これらの状況を見聞きする度に、怒る気力さえも失い、症状を悪化させていきました。そのため先生は、それまで昼夜を問わず、欠かさずご覧になっていたコミュニティブログを、しばらくの間読むことができなくなってしまったのです。

そんな中で、準認定ティーチャーの依田ちゃんだけが、先生の壮絶な浄化が意味することに、真正面から向き合い、すぐ側で先生を支え続けていました。そして、依田ちゃんのリードで、何人かの生徒たちが立ち上がり、先生に心を寄せ、今何をすべきかを模索し、声を上げるようになりました。

しかし、彼らは圧倒的に劣勢でした。

自分が困った時だけ、いいように先生の助けを求め、自分にとって都合の悪い状況になった途端に逃避する、私たち人間どもの卑劣な在り方が、そこに露呈していたのです。

いつも「先生、先生」と、先生を慕っていた生徒たちが、恩を仇で返すかのように、衰弱している先生の心を踏みにじっていく様子を見ていて、私はいてもたってもいられなくなりました。先生のお気持ちを感じる度に、「このままでいいわけがない」という思いが、強くなっていきました。

しかし、私は彼ら以上に酷い裏切りを、これまでずっと、先生に繰り返してきています。

私は、先生から日常的に指導を受ける中で、多少は心を入れ替え、成長してきた部分もあるのですが、スクール生時代に犯した大きな失態を振り返ることはまるで出来ておらず、そのため根本的には、何も改まっていないのです。

先生に心を閉ざし、与えてもらったものを全て捨て去るように辞めるという、最悪の裏切りだけはしたくないという思いから、私は先生のもとを去ることだけは選ばずにきました。ですが、先生のすぐ側にいながら、カルマ清算に向かうこともなく、中途半端な在り方に甘んじることを、自分に許し続けてきました。

これが、私の実態です。

そんな私が、自分の過去を棚に上げ、カルマ清算コースで学ぶ受講生に、怒りを向けていいのだろうかと思いました。しかし、最も先生の近くにいて、先生が苦しんでいる姿を、日々目の当たりにしている自分が、声を上げずにいてどうするという思いも、どんどん膨らんでいくのでした。

私の中で、二つの思いが綱引きをしていましたが、時間を追うごとに、激しく湧き上がる怒りを抑えることができなくなっていきました。

受講生の中には、かつて私がスクール生だった頃、一緒に学んでいたメンバーもいます。何年も先生のもとで学んでいる、私にとって大切な友人でもある彼らが、この状況下において、それまでのリラでの経験を活かすことなく、カルマに呑まれ続けている姿を見る度に、私の中には、一層強い怒りが湧き上がってくるのでした。

ですが、その怒りが、私に行くべき道を示してくれたのです。怒りが湧き上がるたびに、自分がどう在ることが愛に向かうことなのかが、私の中で明確になっていくのを感じました。

そして、私は迷うことなく、先生とリラを支えることと、先生を支え続けている依田ちゃんをサポートすることに、全力を注ぎました。依田ちゃんと一緒に、コミュニティブログを読みながら、私は、毎日毎日、激しく怒り続けました。

そんな中、見えてきたものがありました。
現実逃避する受講生たちの在り方は、まるで、キリストが捕らえられた時に逃亡した、弟子たちの姿そのものだということです。

キリストが、たくさんの弟子たちの中から選んだと言われている十二使徒と過ごしたのは、キリストが宣教を開始し、磔刑により命を落とすまでのわずか三年半の間だったそうです。

キリストと常に行動を共にしていた彼らは、キリストのためなら命を差し出すという覚悟と、敬愛と親愛の情を、常にキリストに表し続けていました。

ところが、十二使徒の一人であるユダの裏切りにより、キリストが捕らえられると、彼らのほぼ全員が、その場から一目散に逃げ去ったのでした。唯一、イエスの一番弟子だったペテロは、捕らえられたキリストの後を追いました。

しかし、ペテロは人々の前で、キリストと関わりのある人間だということを暴露され、自分の身に危険が及びそうになった時、三回「自分はキリストなんて知らない」と言って、命からがら、その場から逃げ去ったのでした。

キリストは、そうなるであろう事を、あらかじめ十二使徒たちに伝えていました。
以下は、キリストのペテロに対する言葉です。

『イエスは言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。
ペテロは言った、「たとえあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。弟子たちもみな同じように言った』
※マタイによる福音書第26章より抜粋


ペテロは、命を失ってもキリストを裏切らないと豪語し、その舌の根も乾かぬ内に、キリストを裏切ったのです。その事実を前にペテロは、号泣するのみだったと言われています。

伊藤先生は、これらの聖書の記述に対して、こう仰っていました。
キリストは、単にサイキック能力により、裏切りを予言したわけではないだろう。弟子たちと過ごした三年半という時間の中で、彼らの在り方を見続け、そうなることを察した上での言葉だったと私は確信している。三年半の間、キリストはずっと、彼らから大小様々な裏切りを受け続けてきたのだろうね」。

私は、先生のその言葉を聞き、キリストの弟子たちに対する怒りや憤り、深い失望が、二千年の時を経て、リアルに伝わってくるのを感じていました。同時にそれは、先生ご自身の心情でもあることを、感じました。

全ての弟子たちに裏切られ、捕らえられたキリストは、十字架に架けられるまでの間、6回もの不正な裁判に引き出されたのだそうです。以下は、磔刑が決まった最後の裁判の場面です。

『ローマの総督ピラトは言った、「それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか」。民衆はいっせいに「十字架につけよ」と言った。
しかし、ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると彼らはいっそう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。
ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。
すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。
そこで、ピラトは囚人バラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした』
※マタイによる福音書第27章より抜粋


総督ピラトは、キリストに罪がないことを分かっていながら、キリストを見殺しにしました。民衆は、権力者の思惑に、扇動され、狂気に踊らされ、キリストを十字架に架けました。

聖書のこの部分を読んだだけでも、保身、傍観、プライドなど、ありとあらゆる人類のカルマパターンが絡みあって、キリストを死に追いやったことが、浮き彫りになってきます。

これについて、伊藤先生はこう仰いました。
キリストの受難は、人間の愚性や卑劣さをこの上ないほど露にし、人類のカルマの原型として、その血をもって紀元と共に刻んだもの。それは、人類に己らのカルマを突き付けるために存在する。カルマにまみれた人間の手により、愛は抹殺されるのだということを、キリストの磔刑は最悪の形で表している。そして、キリストの受難に限らず、同様のことが、あらゆる時代に、あらゆる国で繰り返されてきたのだ」と。

先生ご自身も、過去生において、愛と真理を説いたことで、死罪に問われた感覚的記憶が、はっきりと残っていると仰っています。
先生は今生においても、カルマ清算所であるリラ・アカデミーにおいて、多くの人たちに道を示す中、キリストが受けたものと同様の裏切りを、数え切れないほど受けてきたのです。
その事実は、人類がキリストの犠牲から何も学ぶことなく、同じカルマを繰り返しているということを示しています。

私には、こうなってみてやっと、先生からお話ししていただいてきたことに、実感が伴ってくるのでした。

ユダ、ペテロ、他の十二使徒たち、総督ピラト、群衆の愚かな在り方は、どこをとっても、私にとって身に覚えのあることであり、キリストの死に対しても、まさに自分が加担者なのだということが、改めて私の胸に迫ってくるのです。

そして、民衆が言ったという『その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい』という言葉は、私には、まるで、現代に生きる私たちに対する呪いのようにも感じられました。

この呪いに屈し続けてきたのが、人類なのだと思います。リラで起こっている出来事は、まさに、人類全体の縮図のようなものなのだということを、私は痛感しています。

しかも、私たちリラ・アカデミーに所属する者たちは、このような呪いに屈しないための道を、伊藤先生によって示し続けて頂いてきたのに、まんまとそこに陥っているのです。


伊藤先生は、2011年にリマスターを果たした時点で、ご自身のプループリントは消滅し、かつてエルサレムで結ばれたキリストとの霊的契約も白紙に戻っています。
(※先生とキリストとの霊的契約については、「人格統合Vol.1」のエピローグをお読み下さい)

マスターとして確立された今、伊藤先生は、人類からカルマ的な影響を受けない道、つまり、キリストとはまったく別の道を歩むという選択肢を選ぶことも、可能だと仰います。ですが、先生は、カルマ庁に属する指導者として、キリストの手を離すという選択肢はないと仰るのです。

人類が、キリストに対して何をしたのか。キリストという愛の象徴を血に染めたという事実が、人類にとって何を意味するのか。キリストが流した血の上に、塗り重ねられてきた人類の歴史が、この先、どのような未来を引き寄せることになるのか。
それらを突き付け続けることなく、人類を愛に導くことは不可能だと、先生は断言されています。

だからこそ先生は、自らの意志で、カルマにまみれた私たちが住むドブ川のような領域に、身を置き続けているのです。
それは、私たちのカルマが放置されることで、どのような結果がもたれされることになるのかを、最も分かりやすい形で私たちに示すためであり、同時に、私たちを愛に向かう道へと促すためです。

私は、毎日先生のそばにいることで、キリストに対する先生のお気持ちを、度々聞かせていただく機会があるのですが、その度に私は、キリストや先生が、どのような思いで宿命を背負ったのか、及ばないなりに、これからも想像し、感じ続けようと思うのです。


先生が通られた壮絶な浄化について、当初は、三回でお伝えする予定でしたが、どうしても収まりきらず、次回もこの続きをお伝えしたいと思います。

鈴木 睦子




■11月交流会のお知らせ

「壮絶な浄化」を読み進めていく中で、皆さん色んな思いが湧き上がってきていると思います。

今回の交流会では、準認定ティーチャーの依田が中心になって、伊藤先生が通られた浄化についてシェアをし、ディスカッションを通じて、それぞれが感じているものを深めていく予定です。

このような流れですので、いつもの交流会よりも重々しい雰囲気になるかと思います。ですが、この状況から、目を逸らしたくない、傍観したくないと感じている方や、もっと理解を深めていきたいという方は、是非ご参加下さい。

日時 11/4(祝・月)13時~16時
場所 リラ・アカデミー
参加費 3,000円

お申込みは、リラ・アカデミーまで、メールや電話で承っております。
電話:03-5460-8820
e-mail:info@ly-ra-academy.com

【2013/11/01 08:24】 | By 鈴木


木村忍
睦子さん、
読ませて頂きました。

今の私にできることを、と思って
行動してきたつもりでしたが、
偽善で歪んだ行動だったのではないか?
と分からなくなっていました。
重い状況を受け止め、感じ続けられず、浮き上がって、
何とかしようとばかりしてしまったのではないか?など、
色々、振り返っていました。

「壮絶な浄化(2)」を読ませて頂いていたのですが、
言葉が出ずにいました。
すみません。

その血の責任
保身、傍観、プライド…。

私の在り方も、集合意識の一部として関わり、
ひいては、先生のお体、お心に影響させてしまう…。
至らないなりに、愛を選んでいける自分で在りたいです。

11月の交流会に参加させて頂きたいと思います。
よろしくお願い致します。


たかこ
睦子さん

読ませていただきました。

改めて思い出しても、あの時の状況には怒りが湧きます。
ですが、同時に平然とその時の事を手放してしまえる感性があるのだと、読ませていただき今ハッキリと分かって、なに言っていいか分からない状態です。

喉もと過ぎるとあっさり熱さを忘れてしまえる。
こんな自分は嫌だとハッキリ言えるのと、受け入れてしまえるのと、両方あって、戸惑っています。

ただ、それでも、そのままの状態で居たくない、先生を傷つける状態を平然と続ける在り方は居たくない、と改めて感じました。




ゆみえ
むつこさん

読ませて頂きました。
この間の、私達生徒の在り方は、酷いものでした。
それは、いま尚、続いていると感じています。

リラに来なければ、絶対に得られなかったものばかりなはず。
数え切れないほど、与えて頂いていておいて、逃避するという在り方。
最初は自分も、戸惑っていましたが、右往左往するだけの先輩たちを見ていて、段々と違和感が生まれてきました。

自分も同じにならない為には、この有様に怒りを持ち続けることだと思っています。
怒りを持ち続け、表明することは、私にとって、勇気が要ることでもあります。

そして、この間の先生のお気持ちや、先生が目指されていること。
本当に狭い狭い視野の自分でも、想像して、感じられることはあるはず。
それを感じつづけ、やめないことだと、心に刻んでいます。


むっちゃん

読ませてもらいました。
スクールで、一緒に学んでいたメンバーというのは、まさしく自分のこと。

書いてくれているように、俺は、これまでの三年半の間に先生から与えていただいてきた愛情を、まるでなかったかのように、他人事にして、逃げ続けてしまった。

キリストが弟子たちと過ごした年月が、三年半だったというのも、その後の、自分の身を守るための汚い裏切りも、もう俺そのものじゃないか。

何度も読ませてもらって、自分が何をやっていたのか、刻みこんでいきたい。

そして、カルマに翻弄されてしまう自分だけども、ここまで、先生に身をもって示してもらっていて、俺には、愛に向かわないという選択はないという思いです。



ふじしま
目の前で起こっていることの、あまりの意味の大きさに、怯む自分がいます。

でも、目を逸らすのは違うというのは分かります。

分かった風なことは言えません。交流会に出席して、ただただ目を逸らさず深めたいという思いでいます。



かず
むつこさん、読ませていただきました。

自分たちの罪の前に立ち尽くしてしまう自分と、それは違うと感じている自分がいます。

また来ます。


一般の藤原
鈴木さん

読ませていただきました。
鈴木さんが、こうして伝えて下さることの計り知れない意味の大きさ、そして、その想いを私たちは決して決して無駄にしてはいけないと、強く思います。

私たちは、大罪を犯した。
私も、そこでただこのブログを読んでいるだけの人も皆。

正直、とても痛いです。
先生を教材になんてしたくなかった。
私は、自分を本当に愚かだと思います。
だけど、こういう時こそ目を見開いて、そんな自分をただ静かに見て感じていきます。
教材にさえしなかったら、いったい、先生という愛は、どうなるのでしょう。

私が、今、できることは、この一瞬一瞬の選択肢を変えて行くことだけです。そして、ひとつでも多くのカルマに向き合ってみせます。
ひどい話ですが、それしか先生に報いることを思い付きませんでした。








よしみ
むつこさん

何回か読んでいました。

今、自分達の実態から、目を背けてはいけない。
そう強く感じました。
ここからも、更に逃避することがあってはいけない、と。

気づけば、何度もカルマにのまれては、我に返り、をくり返してるのが現状ですが、
私は、愛に向かいたい。 そう感じています。



まゆ
先生のもとで、あれほどの心通い合う深い経験と時間を与えられ、共に過ごしてきた仲間達が、みな先生の前から逃避するという現実に、私は衝撃を受け続けました。

くもって真実も見えないでいた私の目にそれは突きつけられ続け、それでも目を背けないときに理解したのは、気が狂いそうになるように耐え難い、私たちの実態。

それは、キリストの時代から今もなお、繰り返され続けているということ。
これがずっと変わらぬ人間の実態なのだと、私はそれを認めるほかありません。
今もそれを、直視し続けています。



ぶん
むっちゃん、読ませてもらいました。

あまりに酷すぎる自分の実態を目の当たりにした今、先生からこれまでに与えていただいたものの大きさを思うと、このままでいいわけがないとの気持ちが真ん中にあります。

必ず、これを意志として持ち続けて行動します。



はるか
むつこさん、読ませて頂いています。

呪いに屈することを自分に許してきてしまったのだと感じています。
先生が屈しない道を示し続けてくださったのに、振り払ってしまってきたということなのだと、言葉がありません。

自分の実態、罪の重さ、まだ腹の底から分かりきっていませんが、二千年前から変わらずに繰り返してきたということを重く感じます。
そこから逃げずにカルマに屈しないことを選んでいくしかないと思っています。

交流会でも話し合っていきたいです。


ちよ
むつこさん、読ませていただきました。

保身も偽善も傍観も、自分のなかにあります。
自分の痛みを手放してしまうから、与えられたものも手放してしまう。

それがどういうことなのか、先生になにをしているのか、もっと感じていきたいです。


優実
むっちゃん

記事をありがとうございます。
どこが自分の等身大の気持ちなのかと、感じながら、書かせてもらいます。

先生が、私たちの集合意識を背負われ、その苦しみの最中で私も、動くことはできませんでした。
でもそれは、今になってそうなったのではなく、今までもずっとそうだったのだということ。

先生がキリストについて話されたという、「弟子たちと過ごした三年半の間を見続け、そうなることを察した」というお話が、重く心に残っています。

小手先ではなく、心の奥底から、これからの自分を選んでいきたい気持ちです。




いで
むつこさん

自分がしたことの重さが、果てしなく大きくなる感覚に身がすくみます。

私が先生に何をしたのかを、どこまで深く感じることができるのか

私のカルマ清算は、すべてここに集約されると感じています。

いただいていた愛を、私は不誠実さと逃避をもって裏切りました。
やってしまったことを、消すことはできません。

愛に向かう選択をし続けることだけが、先生に対してこれから示しうる最後の誠実さの一線だと思っています


おおむら
睦子さん

読みました。

みんなにも自分にも怒りと悔しさがわきます。
ここまでのことが目の前に起こっても、変わらないわたしたちの実態、醜悪さ。

人としてのありえなさ、保身傍観を直視し続けて、変わっていきたいです。

カルマに翻弄されても、自分に他人に怒りをもって、改めていきたい。






まりこ
むつこさん

読ませて頂きました。

ただただ、自分の酷さを感じ続けます。



ともこ
睦子さん

読みました。

先生が、どんな気持ちで、カルマにまみれた私たちが住むドブ川のような領域に、身を置き続けているのか‥

私は、その気持ちを分かろうともせず、与えてもらうだけ与えてもらって、心無い在り方をしました。

自分の酷さを感じていくと共に、怒りを持って、保身、傍観を改めていきます。


いずみ
最初、当時のコース生の皆の様子を読んだ時、どうして?と、信じがたい、血の気が引くような感覚がしました。

「怒りが、自分がどう在ることが愛に向かうことかを示してくれる」、ということ。
睦子さんの何十・何百分の1かもしれませんが、近い感覚が、この間に私にも芽生えているように感じています。
自分の中にもある逃避や傍観に対し、怒りを持って対峙し、乗り越えていきたいです。

私は、先生を失いたくないです。
これからも、少しでも成長した姿を見てもらいたいです。
また、睦子さんが書いているように、今まで自分が先生にしてしまったことを見つめ、本当の意味で改めることから逃げてはいけない、ということも感じました。

「カルマにまみれた人間の手により、愛は抹殺される」ということを、人類はもう繰り返してはいけないと思います。
人格統合vol.1のエピローグを、読み返しています。

キリストの想い、先生の想いを、少しでも感じていきたい。
自分に出来ることを選択し、強い気持ちで行動していきます。


麻衣
むつこさん、読ませて頂きました。

未だに私たちは同じことを繰り返す。
もう嫌だと思ったのは、何だったのか。
こんな白々しい自分たちが醜く思えて仕方ないです。


まゆ
藤原さん

この記事の藤原さんのコメントに対して、どうしてもお伝えしたいことがあり、コメントさせていただきます。

藤原さんのコメントに、「教材にさえしなかったら、いったい、先生という愛は、どうなるのでしょう。」と書かれていますが、つまりそれは、「せめて教材にしないと、先生の愛が、無駄になってしまいますよね。そうならないように、先生を教材にしていきましょう」ということです。

私は、先生のことを、決して内観教材などにはしたくありません。
そして、先生を教材にするような人間の在り方に対して、「壮絶な浄化(2)」でも鈴木が伝えているように、私のなかには、言いようのない怒りが湧き上がります。

コメントの言葉に表れている、藤原さんの在り方に対しても同様に怒りを感じ、お伝えせずにはいられませんでした。

依田

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