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医師としての実態

こんにちは。カルマ清算コースで学んでいる、明城です。

先日のりらぶろぐで、私が理想の医師をめざし、地方の病院をやめて、東京に引っ越してきたことをお伝えしました。
前回の記事から、さらに3週間がたちましたが、この間、今まで見えていなかった自分の実態が、次々と明るみに出てきています。

なかでも、「患者さんの命と向きあう」ということを通してあぶりだされた、私のカルマは、自分でも受け入れがたいほど醜悪なものでした。

私は、最初は研修医、ついで小児科医として、患者さんの死に立ちあってきました。最初は、「次こそは患者さんの命を救いたい」と、自分の技術向上に全エネルギーを注いでいましたが、次第に、患者さんの命を救えない自分に無力さを感じるようになりました。
私はずっと、その無力感と戦いながら、医師として務めてきたのです。

そんな私は、今年6月のワークショップで、愛に基づいて患者さんの命と向き合うにはどうしたらいいのかを、先生にうかがいました。そこで、私のこれまでの在り方がどれほど傲慢であったかを、指摘していただいたのです。

患者さんのことを何も知らないまま、ただ生かすことに執着している私に、先生は、こう話してくださいました。

『死』は、すべての魂にとって、究極のライフイベント。どのような死に方をするかによって、それぞれの魂が生きた、その人生の質が決定されると言ってもいい。
その大事な場面に立ちあっているのに、あなたがそこで、『患者さんの命を救えなかった』と無力感にひたっているということは、その人の命を、自己価値を見出すための、ただの道具にしているということ。

本来なら、亡くなる人が主役であり、その人が死をもって表現しているものを静かに見守り、そこから最大限のメッセージを受け取るはずの場面。そこで、脇役でしかないあなたが、『患者さんを生かせなかった自分は無力だ』と、主役を押しのけ、自分の価値があるかないかというところに、しがみついている。

目の前で人が亡くなるということは、その人が、あなたに対しても、死をもって教えようとしているものがあるはず。それは、『この人の死から学びなさい』という、宇宙による計らいでもある。
それぞれの魂には、それぞれの計画があるのに、『生かすのが価値のあること、死なせるのが罪』、というジャッジに縛られることで、すべてを歪め、すべてを踏みにじっている。そんなあり方では、どんな人の死からも、何も学び得られない


私は、患者さんの治療に尽力してきたつもりが、結果として、自分の無価値感を埋めるための道具にしていただけなのだという事実に、大きなショックを受けました。しかも、道具にするのみならず、その人たちが命をかけて教えてくれたことを何一つ受け取らず、無駄にしてきたのです。

今までの自分を振り返ると、亡くなっていく患者さんを前に、それまで、その人と過ごしてきた時間も経験もすっ飛ばして、ただ無力さを感じている、私の異様さが見えてきました。

本当に恥ずかしい話ですが、私はずっと、自分は優秀で心ある医師だと思い込んでいました。今まで、患者さんをモノ扱いする医師に怒りを感じてきましたが、ふたをあけてみれば、自分のやっていることも、その人たちと大して変わりませんでした。

この時、先生から自分のありえなさを突き付けていただいて、私は、医師として当たり前のように信じてきたものが、根元からひっくり返ったように感じました。

リラで学ぶ人たちのなかには、医療従事者が多いのですが、伊藤先生は常々、医師が持つ歪みの激しさについて、お話されます。本来、誰よりも死の重みをわかっているはずの立場なのに、そこに向きあい続けることに耐えられず、感情に麻痺をかけて業務にしてしまうのです。
しかし、現場では、業務的にこなせてこそ一人前、という風潮さえあり、先生に教えていただくまで、自分がその歪みにどっぷりつかっていることに、気づきもしませんでした。

ここに来て私は、医療現場の根深いカルマを目の当たりにしています。
まずは、私自身が人としての心を取り戻し、まっすぐに患者さんたちと向き合えるようになることが先決だとは思いますが、医療の在り方そのものが、根本的に見直されるべき時代に突入していることを肌で感じます。

こうして、自分の医師としてのこれまでの在り方を振り返りながら、今後、自分がどう在りたいのかを、日々模索していきたいと思います。


明城 和子




【2014/08/19 13:59】 | カルマ清算コース生


俊哉
かずさん、記事ありがとう。

自分も、6月のワークショップに参加して、先生のお話を直接聞くことが出来た一人だ。
あのときの先生の気迫、熱意が蘇りながら、読ませてもらった。

人の命を、何とかしたいという傲慢さ。
実は、自分の医者としての価値をあげるためのものだったという実態。
その人が、自分の人生をかけて教えてくれたものが、何なのかを考えないこと。
宇宙からのギフトを踏みにじっていること。
それらのことは、先生に、教えていただくまで分からなかった。

自分は、直接生命を左右する立場にはないけれど、人の身体を治療するいわゆる医療人だ。
しかし、毎日訪れる患者様と、人としてその人と関わりを持ちながら接しているかというと、大いに怪しいところがある。

「医療の在り方そのものが、根本的に見直されるべき時代に突入していることを肌で感じます。」

医療に携わる一人一人が、いかに一人の人間としてすべての人と関わるか、そこが鍵だと読んでいて思った。
先生の教えのもと、ほんの少しずつでも動かしていきたいと記事を読んで思った。





やまと
かずさん

記事をありがとうございます。


この ワークショップで、かずさんの、無力感に襲われるという相談に対して
先生の仰った言葉は、私にとっても「死」を迎えることに対する認識が、ひっくり返るような思いのするものでした。
これまで、どこの誰からも教えてもらうことのなかった真実を、
教えて頂いているのだと感じていました。

本人も家族も医療従事者も
みんなが、『死』を究極のライフイベントとして迎えられたら・・・

悲しくて、ショックでしかなかったものが、
生きる力に繋がる経験となりそうです。
お互い、魂レベルでの気づきの場となることをイメージしたら
感情逃避しなくては、やり過ごせないような、辛くて悲しい場面が
崇高なものとして感じられます。

先生の仰るように、医師の意識がシフトしていったら
その影響力は、ものすごく大きいはず。
かずさんがリラで学んでいることは、
「医療の在り方そのものが、根本的に見直される時代」が来ていることを、表しているのだと感じます。



きみ
かずさん、記事ありがとう。

6月のワークションプでそのような話を先生がされたのですね。

私も医療に携わる人間としてどうなのだろうと思った。
患者さんの様子から、いろんなことを感じていても、仕事を優先させないといけない状況であったり、そういうのを当たり前にしてしまっているように思う。
どうにかしようという感性に蓋をしてしまっているようにも感じる。

記事を読ませてもらって、先日のセッションで先生が仰っていたこと
「全てに意味がある」その言葉を思い出した。

全てのことからその意味を感じていきたいと思った。



ぶん
かず

僕もリラに来るまで、いや学び始めてからも、自分がハートのある精神科医であると思い込んでいた。

でも、リラで学んで4年目となってようやくではあるけれど、日々の診療で感じているはずの様々な感情から、麻痺して逃避しているのを実感してきている。心を診るはずの精神科医である自分が、いかに心ないことか。

かずの記事を読んで、医師である前に一人の人間として患者さんに向き合えるよう、カルマ清算をしていきたいと強く刻み直すことができた。ありがとう。



はるか
かず、記事ありがとう。

私も同じワークショップに参加させて頂いて、先生のお話を聞いて、死というものについてのそれまでの考え方が底からガラッと変わっていくのを感じた。

その人が死をもって何を伝えようとしているのか。
そう考えたときに、私も死が悪だとジャッジしていたし、それがどんなに心無いことなのかと思った。

かずにとって今までの医師としての在り方が根本からひっくり返るお話だったのを感じるし、かずがそれを振り返っていくことがとても大きいことなんだと感じている。

医療に従事はしていないけれど、どの仕事でも、どの人との関わりでも根本は同じことなんだと、自分にも置き換えて噛み締めています。


麻衣
かずさん

先生のワークショップでの言葉のシェアに、こみあげてくるものがあります。
>その人が死をもって表現しているものを静かに見守り、そこから最大限のメッセージを受け取るはずの場面。
>目の前で人が亡くなるということは、その人が、あなたに対しても、死をもって教えようとしているものがあるはず。

私のお父さんの死が真っ先に頭に浮かびます。
そして私自身も、仕事で人を看取る場面がありますが、そのメッセージを最大限受け取ること、そしてその周囲の人がそうできるようサポートすること、ただ業務に精一杯になるだけで、やってこなかったと痛感します。


こに
かずさん

記事ありがとうございます。

かずさんは小児科医だったとこもあって、
特別患者さんの死を食い止める必要性を感じてきたのではとも感じています。

幼くして亡くなる命。遺された家族の壮絶な苦しみ。
本当に想像を絶します。

もしも医療といういうものが伊藤先生の教えに基づき根本から改革されたら、どれ程本当の意味で人々が救われるのかと思います。

例えばどんな意味を持って幼くしてこんな病をかかえ、それぞれの家庭に生まれたのか。そして死を持って何を家族や自分たちに伝えようとしたのか。それを遺族や周囲に伝えるメッセンジャーである医師。そしてその人の最後を本当の意味で看取る医師が世の中に一人でも増えて欲しいという切実な思いになりました。



美雪
かずさん

色んなことを感じずにいられませんでした。

先生が仰る、目の前の人の命を、自己価値を見出すための、ただの道具にしているということだったり、主役を押しのけ、自分の価値があるかないかというところに、しがみついていることであったり。かずさんの意識が根本から変わったのだろうことや衝撃が伝わってきます。自身にも照らしあわせて感じていました。

どのように死ぬかということは、どのように生きるか、生きたのかに繋がっていくことだと感じるし、真剣に生きることとは、人と真剣に関わるということだと、以前先生が仰られていたのを思い出しています。



よしみ
かず

人の死を前に、その人が表現しているものを受け取る。
今の私には、それを実感するってどういうことなんだろうか、と意識が及ばないことを感じるのだけど、
かず自身が今、医師としての実態を知って、日々模索していく姿から、学んでいきたいと思ったし、
かずが、そのカルマ清算をすることで、医療の現場にも、大きく影響を与えていくことだと、記事を読んで感じた。

私自身も、例えば自分の親や、いつも身近にいると感じる人の死に立ち会った時、私は何を感じ、何を受け取るのだろうかと。
そういうことを考えさせられた。




たかこ
かずちゃん

医療現場の歪みと、先生のお話のシェアをありがとう。
これを読むと、同時に医療ドラマの医者の葛藤さえも気持ち悪く感じてしまう。
それを観て感動してたりする私たちって、一体何なんだって思う。

先生のお話を聞くと、死に対する考え方やあり方が、現在世間は本当に何処か狂ってると感じる。
でも自分は今その狂ったあり方にどっぷりつかりっぱなしで、気付きもしなかった。

今、かずちゃんがそこから何とか、出てこようとしてるのも感じてるよ。
本当に心ある医者になって欲しいと感じる。



たま
かずちゃん、ありがとう。
この記事を読み、先生の言葉に触れ、自分の言動を振り返る時間を持てました。

自分は目の前のことをありのままに謙虚に受け止められずに、偏狭な価値観で、ジャッジし、歪め、踏みにじることを日常的にやっている。
こうやってずっと、大事なことを無視して、目の前の一つひとつの宝ものを無駄にしていると。

先生の言葉は、かずちゃんのような命と向き合う仕事をしている医療人達だけではなく、あらゆる人達に、今までの自分の在り方を見つめ直すよう、背中を押して下さっているように感じました。

そして、かずちゃんが書いているように、医療の在り方そのものが、根本的に見直されるべき時代に突入していることを肌で感じ、自分の在り方を改めていこうとする若い医師がいることに、多くの人たちが希望を感じるだろうと思います。



やか
かずさん。いつもお世話になっているかずさんの医師としての側面をかいま見させていただける記事をありがとうございます。かずさんの医師としての感受性、それをさらに掘り下げていく先生のご指摘、どちらもわたしにとってとても胸に入ってくるものがありました。わたしは今まで人の死とほとんど接したことがありません。継父が亡くなった時、臨終に立ち会うことはありませんでしたが、死に向かって弱っていく過程や、遺体を見させていただいたこと、葬儀の過程に立ち会わせていただいたことなど、血の繋がらないわたしをこんなにも重要な局面に関わらせてくれた継父の懐の深さに打たれる思いがしたことを思い出しました。家族とは親とは、このように生と死の、ライフイベントのもっとも重要な局面に立ち会わせていただけるご縁なのだという新たな認識を与えてくれたのも、やはり継父の死によってでした。かずさんの記事によって、その記憶が掘り起こされた気がしました。


中山寛士
カズ

読ませてもらったよ。
すごく響いてくる。

先生の言葉。
生かすことに執着する事の、本当の実態。
その心無さ。
その方の死という表現から学び得ない、その痛い事実。

一体どれだけの医師が、人が、そのことに気付いているだろうかと思う。
俺にもすごく響いてくる。
また、人をそのようにしていく、ゆとりのない社会。
その毒のようなものも感じる。

そう感じると、やはりカルマ清算を進めていくしかないと、腹の底が熱くなる。

死という表現から、学び得ない。
そんな社会でいいはずがない、と思う。




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