先日のブログでお伝えしたように、先生より、「各自一人でキリストと繋がって、毎日やるべきこと、行くべき所を見つけなさい。」と言われ、私達は次の日から別行動をすることになりました。
そして翌日の10月11日、私はゲッセマネの園へ行くことにしました。
![800px-Jerusalem_Dome_of_the_rock_BW_14[1]](http://blog-imgs-15-origin.fc2.com/l/y/r/lyrasantih/20091020040214b39s.jpg)
ゲッセマネの園は、城壁に囲まれたエルサレム旧市街のすぐ外にあります。キリストは、しばしばここで祈ったといわれています。
聖書には、最後の晩餐の後も、キリストは血のような汗を流しながらゲッセマネの園で祈ったとあります。その時キリストは、3人の弟子達を連れて来たのですが、彼らはキリストから寝ないようにして待っていなさいと言われたにも関わらず、キリストが自らのその後の運命を知りながら祈っている間に、居眠りをしてしまったのでした。そしてその後、キリストはその側に在る洞窟で捕らえられたと言われています。
キリストはそのゲッセマネの園で、どのような想いで、どのような覚悟をもって祈っていたのか…今の私に理解出来るわけがない。しかし私はそれを理解できるような人間になりたい。キリストの中にある、絶対的な愛を知りたい。私のような愚かな人間が、キリストを十字架にかけたのだということを、ちゃんと理解したい。キリストに背負わせたものを、自分で背負える人間になりたい。キリストが本当に伝えたかったことを、後の世に伝えられる人間になりたい…。そのためには、居眠りをしていたという弟子達をこの目でしっかりと見なければいけない…。
そして私は、1時間近くかけてホテルからゲッセマネの園まで歩いて行くことにしました。エルサレムの強すぎる日差しの中、一人黙々と歩きながら、私という人間が先生や地球の未来を握っているのだという、前の日の晩に突きつけられた事について、ただ向き合う以外に何も出来なかったのでした。
ひとりの人間の意識が周囲へ多大な影響を及ぼすということについては、これまでも何度もリラで学んできました。しかし、このことに関しても私は、その本当の意味や重みを理解せず、ただ頭で分かったつもりになっていただけなのでした。
これまで先生に何度も指摘して頂いた、「自分が学んだことを周囲の人と分かち合えない」、「自分自身の責任の重さを自覚出来ていない」、そして「いつまでも生徒でいようとする甘い意識を克服出来ない」等の課題への取り組みに対して、自分の理解がいかに浅かったかということをエルサレムで突きつけられ、そのような自分自身の意識がどれほど先生や周囲へ多大な影響を及ぼしてきたのかと考えると、私はもはやいい訳を探すことすら出来ず、完全に逃げ道を塞がれたようでした。私は自分の愚かさを、認めざるを得ませんでした。
また、宇宙の法則を知り体現するためには、自分の中に一切のごまかしがあってはいけないということを、先生は常に自らの姿を通して教えて下さいますが、私は、宇宙の法則を知り、それを体現することを強く求めながらも、それを知れば知るほどごまかしがきかなくなるという事に対して、実はどこかで恐れ、抵抗していたことにも気付かされました。そして、自分の中のそのような分離した意識を目の当たりにし、更に打ちのめされたのでした。
そんな愚かな私に対して、「私の側へ寄りなさい。私を見なさい。私を知りなさい。」と語りかける、キリストの意識を強く感じました。しかし、こんな未熟な意識段階にいる私には、キリストに近付く資格などないと、私は自分を責めました。「ごめんなさい…!ごめんなさい…!」と、ただ心の中で何度も繰り返しながら泣くことが、私に出来る精一杯の事でした。
打ちのめされながらゲッセマネの園に辿り着いた私に、一人のおじさんが声をかけてきました。その付近には、キリストが祈りの後捕らえられたといわれる洞窟や、マリアの墓のある教会があったのですが、そのおじさんは、今日は洞窟が閉まっているという事等を教えてくれ、ゲッセマネの園に連れて行ってくれました。
![446px-Gethsemane[1]](http://blog-imgs-15-origin.fc2.com/l/y/r/lyrasantih/20091020040141549s.jpg)
ゲッセマネの園には、キリストの時代からあるというオリーブの老木が8本ありました。
そのオリーブの老木を見つめていると、キリストの心中を察することも出来ず、言われた通りただ待っていればいい、という意識でいた弟子達の姿が、私の脳裏に鮮明に浮かび上がりました。その愚かな弟子達の姿は、やはり私以外の何者でもなかったのでした。
私は、とても大切な時に何度も先生やスクール生の前で眠りこけた経験があります。今回のエルサレム訪問でも、テルアビブの空港からエルサレムのホテルへ移動する車中でいきなり眠りこけてしまったのでした。本来なら、先生がそうしていたように、キリストやガイドたちからのコンタクトがないか、私達はここから何をすべきなのか、程よい緊張感が必要な場面でした。
また、すでにブログでお伝えしたように、3日目には1日中猛烈な眠気と闘っていたという有様でした。どちらも、上の存在達が私達に大きく働きかけ、先生が上の存在と密にコンタクトを取っておられた大切な時にです。私自身、キリストより召喚を受け、自身の使命を果たすためにエルサレムへ来たにもかかわらず、上の存在とコンタクトをとって然るべき時に眠ってしまったということは、疲れや睡眠不足という理由で片付けることは出来ません。ただただ自分の意識が足りていなかった、そして、自分の訪れた意味や重要性を全く理解出来ていなかったということです。そんな意識でいたために、上の存在達からの働きかけによる高波動なエネルギーに耐え切れず、眠ってしまったのでした。
そしてそんな私の在り方は、私自身だけでなく先生やリラで学ぶ人達、人類にどれほど大きな影響を及ぼしたかしれません。私はゲッセマネの園で、そんな自分の在り方を改めて省み、自分のしたことが引き起こす結果を考え、凍りつくような恐怖を覚えました。
そして、キリストの想いを感じようと瞑想していたら、私はこともあろうにここでもまた、一瞬だけでしたが気を失うように眠ってしまったのでした…。
その瞬間、恐ろしい形相で怒りを露にしながら、私を棒で殴るキリストのビジョンが見えたのでした。私は戦慄を覚え、激しく殴られるに身を任せながら、ただただ泣いて謝罪を繰り返すことしか出来ませんでした。
私は、キリストの燃えるような怒りを、はっきりとこの目にしたのでした。
先生は一般的に語られることの無い、“キリストの怒り”というものについて、前々より示唆されていました。現代に残るキリストの言葉というものは、全て弟子達が伝えたものや、教会にとって都合よく変えられてしまったものです。それらは、キリスト本人が残した、人間としての苦悩や葛藤、怒り、悲しみ等の感情を伴った言葉ではありません。キリストについて語られる事は、周囲の願望や思い込みによって少しずつ歪曲されたものなのです。ましてや、人間としてのキリストの怒り等のネガティブな感情については、ほとんど語られることはなく、先生はそれに関して、「実際のキリストは、もっと怒っていたはずだし、もっと苦悩していたはずだ」と、仰っていたのでした。
そして私はこの身を以って、先生の仰っていた、何も理解しようとしない弟子達や人間達へのキリストの怒りというものを垣間見たのでした。また同時に、キリストの深い悲しみと痛みというものも、ひしひしと感じたのでした。
それでもまだ私には、キリストの痛みや悲しみ、怒りを全くといっていいほど理解出来ていないのだろう…。そんな私を見て、今もキリストは更に痛み、悲しみ、怒っているのだろう…。それでも私は、キリストの痛みを理解できるようになりたい…。
そんな想いが私の内から溢れ出すなか、キリストに問われました。
「あなたは何のために愛と痛みを知りたいと言うのか。自己満足のためか。もしそうでないと言うのならば、あなたはなぜ他者と分かち合おうとしない。なぜ他者のために得ようとしない。なぜ他者のために体を張って努力しない。なぜ他者のために地に這いつくばって、苦しみに耐えようとしない。」
この問いに、私はただただ押し黙るしかありませんでした。どれも、キリストや先生がしている事であり、先生に何度ご指摘頂いても私には出来ない事ばかりだったからです。なぜ私は、自分の得たものを皆と分かち合うということが出来ないのだろうか…と未熟な自分の在り方を思うと、死にたくなるほどでした…。
ゲッセマネの園で、愚かな弟子達と自分を重ね、人間としてのキリストの怒りを目の当たりにした私は、呆然としながらホテルへと帰りました。罪深い私の肉体はとても重く感じられ、私は足をひきずりながら、薄暗いエルサレムの街を彷徨うように歩きました。私は、まるで自分自身が創り出した地獄を歩いているようでした。
先生は、今何処におられるだろうか…。
先生は、キリストと同じように私達に命を預けているのだ…。私も先生に、命を預けるべきなのではないだろうか…。先生の命を預かっている、ということを自覚するということは、自分の命も先生に預け、一生懸命自分のやるべき事をやるしかないのではないか。それはつまり、どういうことを意味するのだろうか。誠実にオープンに、先生や自分、周囲の人達のために生きるということだろうか。だとすると、その為にすべき具体的な事は、先生がこれまでずっと、私に教えて下さってきた事ではないのか…。やはり私は、先生にこれまで教えて頂いていたことを、何も理解していなかったということなのか…。
そのようなことを考えながら、これまでに感じたことの無いとてつもなく重いプレッシャーを抱え、ただひたすら歩きました。
ホテルに着いてからも、その事について考え続けました。
そのうちに、ふと、人と人との結びつきというものは、本来そのように互いの命を預かり合うものなのかもしれない…、人は皆、自覚をしていないだけで、そこまでの大きな責任を互いに負うべきなのかもしれない…、本当の絆というものは、そのようにして生まれるものなのかもしれない…、それをキリストも先生も私達に教えようとしているのではないだろうか…そういう想いが私の中に、はっきりと浮かび上がってきたのでした。これまで、入り込んだこともないような深い暗闇を彷徨う私にとって、それはまるで、見たこともないような眩い光の片鱗を闇の中で垣間見たような、奇跡のような瞬間だったのでした。
![786px-MtolivesviewC[1]](http://blog-imgs-15-origin.fc2.com/l/y/r/lyrasantih/2009102004015805ds.jpg)
この日の晩、先生は、キリストとのイニシエーションについてお話されました。
「高野山へ召喚を受けた時のように、エルサレムでもイニシエーションが起こると思っていたけど、まだその前兆すらない。このエルサレム訪問で私のキリストとのイニシエーションが起こるかどうかは、もしかすると、あなた達がここで何を思って、どう行動するかによるのかもしれない。今回私は、何年もかけて全身全霊で教えたあなたたちを、私の生徒の代表としてキリストのもとに連れてきたのだから。あなたたちの段階は、そのまま教師である私の段階を表すってことだからね…。」
イニシエーションは、先生や人類全体、そして宇宙全体にとっても、とても重要な意味を持つ深遠で霊的な通過儀礼です。先生のこのお話を聞いた瞬間、私は全身に鳥肌が立ち、凍り付いてしまいました。
こうして私は、エルサレムに入って以来、何度ともなく、今の自分の意識や行動が、目の前の先生にこれほどまでに影響を及ぼすのだということを、ありありと見せ付けられるのでした。そして、互いが多大な影響を及ぼしあっていることを熟知した上で、それを受容されている先生の在り方が、まさに命を預けるということなのだ…と、ここでも思い知ったのでした。
ほんの少し前に、闇の中で眩い光の片鱗を見て、何か大きなものを掴んだような気になっていた私は、再び地獄の底へと叩き落されたのでした。
市川みどり
自分の愚かさを受け入れ、求め続けていかなければと思った。