エルサレム旧市街内のキリストが十字架にかけられたゴルゴダの丘には、現在「聖墳墓教会」が建っており、その中にはキリストの墓があります。キリストがピラト官邸で死刑判決を受けてから、ゴルゴダの丘まで重い十字架を背負い歩いた道は、ヴィア・ドロローサと呼ばれていて、約1kmのその道には、キリストがその足跡を印した14箇所のステーションがあります。ヴィア・ドロローサとは、「悲しみの道」という意味だそうです。死刑判決を受けた所…鞭を打たれ十字架を背負わされた所…十字架の重みに耐えかねつまずいた所…マリアが十字架を背負うキリストを見ていた所…エルサレムの娘達に「私のために泣くな、自分や自分の子供達のために泣くがよい」と言った所…刑のために服を脱がされた所…十字架に手足を釘付けにされた所…十字架に磔となり絶命した所…マリアがキリストの亡骸を受け取った所…墓におさめられた所…がステーションとして道々に印されているのです。まさにキリストが辿った、苦難の道なのです。
ヴィア・ドロローサは、古い石造りの建造物に挟まれたとても狭い道でした。両脇には商店がずらっと立ち並び、観光客や巡礼者、街の人々が行き交いとても賑やかでした。
自分のこれまでの愚かな在り方を振り返り、キリストの想いを感じようとしながら、胸が潰れるような気持ちでその道を辿りました。しかし、両脇に並ぶ沢山の商店の主人達が道々に椅子を出して座り、そんな私を物色するような目でじろじろと見ていました。
途中、道に迷った私に現地の男性が声をかけてきて、案内してくれました。その人は私の目をじっと見つめ「あなたは頭で考えすぎだ。目を見ればわかる。感じなさい。」と、言ったのでした。私はその言葉に、はっとしました。確かに私はその時だけでなく、これまでずっと思考を優先させていたのでした。それで、ぐるぐると考えるだけで行動に移せない、ということが多々ありました。それは、傷ついている人が目の前にいるのに、相手の気持ちを考えて、その人のためにすぐに行動に移せない、やるべき大切な事が目前にあるのに、すぐに実行に移せずに宇宙のリズムから外れてしまう、という私の重大な課題に繋がっていました。
私はリラでも、自分のやるべき事をやるべき時に実行することが出来ず、リラ全体のリズムを狂わせてしまう事が何度もあるのでした。今回のエルサレム訪問について、事前に皆と分かち合うことが出来ていなかったこともそのひとつです。
私には、その人の言葉がキリストからのメッセージのように思えました。

その後私は、キリストが磔となったゴルゴダの丘の上に建つ聖墳墓教会へ辿り着き、緊張感と共にその中へと入りました。しかし、まず人の多さに驚き、教会内部の豪勢な装飾に戸惑いました。教会内のどこへ行っても、様々なエネルギーが混ざり合って混沌としていました。
大きなドームとなっている部分に置かれた、豪華で大きな建造物の中に、キリストの墓は安置されていました。そこでは観光客らしき団体が、建造物の中にあるキリストの墓の傍まで行くために並んでいました。
私は、キリストの墓の傍まで行きたいと思い、その人々の行列に加わりました。並んでいる間、順番を抜かされないようにする人や、必死に周囲の写真を撮る人などがいました。私はそういった人達を見て、無性に虚しくなりました。
なんのために我先にと中に入るのだろう。そんなに熱心に写真をとってどうするのだろう。私にはその人達が、キリストの想いを何もわかろうとしないただの観光客に見えました。しかし私自身も実際に、キリストの想いを何もわかろうとしないで、このエルサレムへと足を踏み入れてしまった観光客の一人だったのでした。
ようやくキリストの墓が安置された狭い部屋に通されましたが、そこにいられる時間は数十秒ほどでした。墓の前に立つととても強いエネルギーを感じましたが、それが何なのかをわかろうとする暇も与えられず、私はそこを追い出されました。
先生は、その数日前にすでにヴィア・ドロローサを歩かれ聖墳墓教会へ行かれていましたので、そこでの様子を私達に語って下さっていたのでした。
キリストが、想像を絶する苦しみを味わいながら、重い十字架を背負って歩いたあの道で、土産を売るたくさんの人々…そこで少しでも儲けようと客を騙す人…ナンパする人々…。365日をかけて聖典を読み終えたことを祝うため、2000年前のキリストが人類のために磔刑になった事などなかったとでも言うように、またキリストの壮絶な運命など自分達には関係ないという様子で、悲しみの道を歌いながら大騒ぎして行進するユダヤ教の人々…。教会内を見物しながら練り歩く観光客やキリスト教の信者達…。聖地と言われながら、様々な人々の思惑で踏みにじられる聖域…。一体、キリストの苦悩や想い、キリストがその命を犠牲にしてまで伝えたかった事を、本当に理解している人々や、理解しようとしている人々は一体ここにどのくらいいるのだろうか…そういう気持ちになったと、先生は教えて下さったのでした。
今の私には、キリストと先生の痛みや想いを全部理解することは出来ません。だから先生がそのように仰っていた意味も、全部理解することは私には出来ないのだと思います。しかし実際に聖墳墓教会に行き、先生の仰っていた意味がなんとなくですが分かったような気がしたのでした。そして、キリストから召喚されたにもかかわらず、軽々しく観光客の気分でエルサレムに足を踏み入れた自分が、どれだけキリストを侮辱していたのかということを、ここでも思い知ったのでした。私はそんな自分が情けなくて恥ずかしくて、自分が人として生きていることに耐えられなくなり、思わず人をかきわけ走り出し、教会から出たのでした。
教会から出た途端、私の目にはエルサレムの抜けるような青空が映りました。
その瞬間、「飾られた教会の中に、あなたの学ぶべきものはない。あなたは教会の外へ出なさい。」と、キリストに言われたのでした。
そして、先生がいつも仰っている「人は人と関わることでしか、成長出来ない。」という言葉や、「後に来る人達に、自分の在り方を示しなさい。霊的探求の道において少しだけ先を行く者として、周囲の人々に教えながら、一緒に学び、成長しなさい。」という言葉が、私のなかではっきりと聞こえたのでした。

その後、放心状態で歩く私に、何人かの商店の店主が声をかけてきました。その内の一人は、私を呼びとめネックレスをあげよう、安く売ってやろうと話しかけてきました。そして私に聞き取れない早口の英語で何か喋ると、私の服の襟元を指で軽くひっかけ、一瞬私の胸元をのぞいたのでした。私はわけがわからず混乱し、放心した後、怒ってその場を立ち去りました。
そして私はそのまま、その店主に対しての発散しきれなかった怒りを抱えながら、ホテルへ向かう旧市街の道を足早に歩きました。私のなかでその怒りはどんどん膨らみ、その対象を変えていきました。その店主に対して、数え切れないほど立ち並ぶ商店に対して、多くの観光客に対して、キリストが何のためにその命を犠牲にしたのか深く理解しようとしない人々に対して…自分が自分を愛していないだけなのに人から愛をもらえないと、ただ不満ばかり抱く人々に対して、そして自分が人を傷つけ貶めていることに気付きもしない人々に対して…変わらなければならないと、どこかで気付きながらも変わろうとしない人々に対して…。
そのような怒りと混乱をかかえてホテルへと戻り、先生にこの話をした時、「あなたがこれまで、今回のこのエルサレム訪問やキリスト、そしてゴルゴダの丘へと続く道を軽視して来たから、あなたもその店主に軽視されたのだ。」と言われました。そしてその先生の言葉で、ヴィア・ドロローサや聖墳墓教会で感じた人々への不信感や疑念、帰り道に感じた怒りは、結局全て自分に対して向けたものだったのだと気付き、またもや自分の愚かな姿を思い知らされたのでした。
私は、エルサレムで自分が行くべき所へ行けたのだろうか、やるべき事をやったのだろうか、見るべき事を見たのだろうか…わからない…でもとにかく私はこの経験を伝えなければならない…そして再びここへ来るまでに成長しよう…もっとキリストや先生の想いを理解出来るようになりたい…
そんな想いで、エルサレムでの事を振り返りながら空港へと向かいました。

イスラエルの空港ではガイドブックに書いてあった通り、出国手続きの際に厳しいチェックが行われました。スーツケースや手荷物も中身をチェックされるのですが、先生と木村さんは比較的簡単に行われました。木村さんにいたっては、スーツケースを開けられることもありませんでした。しかし私だけは、別の場所に連れて行かれて、小一時間近く特別に厳重なチェックを受けることとなったのでした。6〜7人の係官によってスーツケースも手荷物も、小さなポーチの中身まで全部チェックされました。また、ボディチェックをするために、別室に連れて行かれもしました。私はあまりの不安に、泣けてきました。
私は、自分の持ち物をあれほど入念に調べられたことは初めてで、それはとても屈辱的なものでした。そして、私は徐々に心細くなり、様々な妄想が頭の中を駆け巡りました。しばらく日本には帰れないかもしれないな…こちらの牢屋でブログを書かせてもらえるだろうか…そんな事をぼんやり考えながら、荷物検査の様子を見ていました。
結局、飛行機でブログを書くために手荷物に入れていたノートパソコンとコードが、特別な箱に入れられて、別送品として日本まで送られることになりました。先生も木村さんも、それぞれ1個ずつノートパソコンを手荷物に入れていたにも関わらずです。
こんな検査を終えた私は、一人の係官に案内されて出国手続きを終えました。
その後、先生からはこの件に関して、「あなたは宇宙から、あの様に全てチェックされている。今後、宇宙の意思を受けて、宇宙と共に働くことが出来る人材かどうかという点において、あなたは今ギリギリの所にいる。そのため、あなたの在り方が果たして宇宙と共に働く者として相応しいかどうか、今後は意識の細部に至るまで、常に宇宙からチェックされると思いなさい。今回の検査はその表れだ。」と言われたのでした。その言葉を聞き、体中の細胞から冷や汗が出るような心地でした。私は、一切のごまかしが効かない領域へと自ら望んで足を踏み入れたのだ、と自覚せざるをえませんでした。
そして飛行機に乗り、ご自分のパスポートを見ていた先生が重大な事に気付きました。なんと、本来あるはずのイスラエル入国のスタンプが、押されていなかったのでした。
イスラエルの出入国スタンプがパスポートに押されていると、アラブ諸国などで入国できない国があるということから、イスラエルでは出入国の際、空港でスタンプを押すか否かを確認されました。普通は、何も確認されることなくスタンプを押されることが多いそうですが、私達はスタンプを押すかどうか聞かれたのでした。入国時、「他の国に入れない場合があるが押しても大丈夫か?」と聞かれた先生は、「構いません。」と答えておられたので、私も先生の隣で同意してうなずきました。しかしその時、木村さんが私達3人のグループの先頭を切って入国し、自らスタンプを断っていたために、同じグループだからということで、本来押されるべき先生と私の入国スタンプが押されていなかったのでした。
先生は、出国時には同じ質問に対して、「構いません」と同じ返答をしたことで、出国のスタンプを押されたそうでしたが、私は一人遅れて出国手続きをする際、厳重なチェックを受けたことで頭が一杯で、スタンプの事はすっかり忘れており、係官からは何の確認もないまま出国スタンプが押されなかったのでした。
結局、今も私のパスポートには、イスラエル入国時のスタンプも出国時のスタンプも押されていません。つまり私のパスポートには、イスラエルへ入国した形跡も出国した形跡も残されていないということです。
キリストに召喚され入国したイスラエルのスタンプがないということは、エルサレムで私は本来すべきことを成し遂げられなかった、という結果をそのまま表しているのでした。
それを理解した時、頭が真っ白になりましたが、「自分の未熟さを考えると当然の結果なのだ…自分の愚かさを受け入れ、更に学び、成長していくしかない…」と、静かに受け止めるしかありませんでした…。
先生は、キリストから召喚を受けた時、キリストが磔となった十字架の根元に、四国八十八箇所巡礼でお遍路が用いる金剛杖が突き刺さっているヴィジョンを見られました。そして先生は今回のエルサレム訪問で、そのヴィジョンが示した宇宙の意図通りに、真言密教とキリスト教の統合を果たされ、キリストの意思を受け取ってこられたのでした。先生は、今後も様々な存在から、様々な国に召喚されることになります。先生は、あらゆる宗教を通じて人類を意識統合に導くという、人類の進化に多大な影響を及ぼす使命を担っておられるのです。すでに来年の6月にはシヴァに召喚されインドへ、来年の秋にはラーに召喚されエジプトへ行かれる予定なのです。その第一歩が、キリストの召喚による今回のエルサレム訪問でした。
先生のパスポートは、このエルサレム訪問の直前に期限が切れて更新されたばかりでした。その新しいパスポートに押される最初のスタンプが、まずイスラエルのものであるということは、先生がこのアセンションに向けて人類の意識に多大な影響を及ぼす、大変重要な使命が開始されたという象徴なのでした。
そして、今回エルサレムでは、先生だけがご自分のされるべき事を十分に果たされたという証が、出国スタンプとして表れているのです。
前述のように木村さんは、キリストに召喚されて訪問したイスラエルの出入国スタンプを、自分から拒否しました。「これは、木村が入国時以前からすでにキリストからの召喚を軽視し、自らキリストとの契約を断ち切ったということを象徴している。更に木村のその意識のために、私と市川の入国スタンプにまで重大な影響を及ぼしたのだ。」と、先生は仰ったのでした。また、「帰りの出国時の検査で、木村がスーツケースを開けられさえしなかったということは、宇宙からのノーチェックを意味している。しかしこれは宇宙が木村を見限ったということではなく、木村が自分から望んだはずのキリストとの契約を自ら破棄するという形で、宇宙から差し伸べられた手を振り払ったからだ…。」ということも仰いました。
このように、私達の宇宙に対する在り方は、そのまま現実レベルにおいて目に見える形となって表れるのです。
また、このような時、私達は普段口にしている意志や、宇宙に対する在り方の真偽を問われることになります。
宇宙より差し出されたものを拒否し、自分の責任を放棄するということは、現在与えられているものの価値も分かっていなければ、自分がどれほど大きな役割を担っているかという事への自覚もないという事でもあります。
そのため、この度木村さんは、リラの準認定ヒーラーというポジションを失う事になったのでした。
先生は「求めよ、さらば与えられん」という言葉は、正に宇宙の真理の根源を表している、と常々言われます。そして先生ご自身、「求めよ、さらば与えられん」という宇宙の法則を体現なさって、私達が向かいたい方向へ向かえるように、そして私達が望んだものを得られるように、出来る限りのサポートをし、最善の形で私達が望んだものを与えて下さいます。私も実際に、これまで望んだものは全て、先生の下で具現化されてきました。
しかし、自分への不信感や被害者意識、プライド等のカルマパターンにのまれて、自分が望んだのだということも忘れ、与えられているものを自分から振り払ってしまう人達が中にはいるのです。そのようなスクール生達が、先生から与えられたものを受け取らずリラから去って行ったのを、私はこれまでに何度も見てきました。
エルサレムで私と木村さんは、宇宙からいくつものテストをされたのですが、この宇宙からのテストは私達二人だけでなく、日本にいたスクール生達にも同様になされたのでした。そしてスクール生達も、そのテストにおいて見事にカルマパターンが炙り出されたのでした。
その中で、これまでに何度かリラのブログを書いていた小池さんは、木村さん同様、自ら望んだにも関わらず、先生から与えられたものを振り払い、この間先生との契約を自ら絶ったのでした。
それでも先生は、決して自ら私たちを切り捨てることはしません。木村さんも、小池さんも、現在もまだリラに籍を置いています。ですが、霊的な契約は一度破棄されると、再契約がなされるためにはとてつもない努力が必要となります。
自分が求めれば、宇宙はいくらでも与えてくれるのです。しかし、自分がはじめに望んだものなのだということを忘れてしまっては、与えられたものを受け取ることは、絶対に不可能なのです。人はそうして、自分や宇宙を裏切るのです。
先生がキリストよりエルサレムへの召喚を受けられた時、それは「パッション」という映画と共にやってきたのでした。「パッション」は、人間として生きたキリストの想像を絶する苛酷な人生の、最後の12時間を克明に描いた映画です。
そして、この「パッション」は、かつてスクール中級の卒業論文のテーマとなるはずだったのですが、当時の中級生が「パッション」を観ても何も理解出来ないであろうという意識段階にあったために、卒業論文はなくなり、映画を観ることは許されなかったのでした。
私が事前に、キリストやエルサレムについてシェア出来ていなかったために意識が低かったスクール生達や、宇宙からのテストにおいて課題が炙り出されたスクール生達のエネルギーを、エルサレムから察知された先生は、エルサレム訪問6日目に「全員パッションを観るように。」と全スクール生へ指示を出されたのでした。
そのため、日本にいたスクール生は、「パッション」でキリストの想像を絶する苛酷な運命を受け入れる姿を観て、それぞれが自分の愚かさを思い知ったのでした。
私は普段から多くの失敗をし、その度に先生にご迷惑をおかけし、先生の気持ちを踏みにじってしまいます。そんな時も先生は、私の愚かさを受け入れて下さったうえで、私を指導して下さいます。私はその度に、「私が未熟なばかりに、またしても先生のお気持ちを踏みにじってしまった。先生はどんな想いをされただろうか。」と、先生の受けているであろう痛みを想い、「もう二度とこんな事は繰り返したくない。」と、強く思う事で様々な課題を克服してきました。
出来ることならば、先生のお気持ちを踏みにじるような真似は決して繰り返したくはありません。
しかし私は、自分の愚かさゆえに、何度も先生にご迷惑をかけ、先生の想いを踏みにじってしまう事でしか、自分の愚かな在り方に気付けないのです。そして、先生が私のために痛みを受けられ、その先生の痛みを理解しようとすることで、私は自分が何をしてしまったのか自覚し、成長することが出来たのです。
そのように、先生が私達にして下さっている事が、キリストが弟子達や民衆にしていた事と全く同じなのだということ、そして、キリストと先生のその姿に本当の意味での愛があるのだということ、「自分や他人の痛みを理解しなければ、本当の愛を得ることは出来ないのだ」という先生のお言葉の意味を、エルサレムの地獄を彷徨うなかで、私は身を以って理解したのでした。その時の衝撃は、まるで私の魂に深く刻み込まれたかのようでした。

エルサレム訪問2日目、観光客気分でエルサレムへと足を踏み入れた愚かな私に、先生は「あなたはいつかもう一度、ここへ来なさい。その時、私は同行しないから、あなたが他の人間を率いてもう一度、ここに来なさい。これはキリストからの言葉でもあると思いなさい」と仰いました。
再びエルサレムを訪問する時、私は他のスクール生を率いて行かなければなりません。その時同行する者として、キリストの想いを理解したい、共に働きたい、先生やリラ、私や皆を支えたい、という固い決心のもとに、4人の中級生が志願しました。先生を通して、キリストから2度目のエルサレム訪問を提示された時、私が死ぬほど怖かったように、彼らも大きな恐れを抱いているはずです。でも、だからこそ今後この4人と、そしてリラの仲間やリラに通う人々、周囲の人々と共に、もっと多くのことを学びたい、もっと成長したい、と私は強く決心したのでした。
そして、自分が常に未熟で愚かだということ、自分のその愚かな意識が今もキリストの手足に釘を打ち、キリストを磔にしているという事を、常にこの身に刻んでおかなければならないと思いました。また今後も、私のこのエルサレムでの経験を、自分のものだけにするのではなく、多くの人々と分かち合っていきたいと思いました。
12月12日からは、先生と全スクール生、そして一般参加者で、高野山へ行くことになっています。
(詳しくはこちら)先生はこの3次元世界において、大師の意思を日々体現されておられます。即ち、高野山はリラのルーツであり、まさに源と言える場所なのです。そのため、先生や私達スクール生にとって高野山は最も重要な地なのです。
キリストのエネルギーを内包しつつ、すでにリラのエネルギーは高野山へ向けてシフトしています。
私は、今回のこのエルサレム訪問で、自分の愚かさを嫌と言う程思い知りました。そして、愚かな自分の姿を、心底恥じました。しかしそれでも、そこで経験したことを決して無駄にせず、とにかく少しでも成長した姿で、高野山の大師の元へ行けるように、自分に出来る限りの事をしていくしかないと思っています。
私はこれまで、スクール生として2度高野山を訪れました。
次は、その時の事をお伝えしたいと思います。
市川みどり
宇宙は私達が望めばいくらでもサポートやチャンスを与えてくれるけど、それは私達が自己不信や被害者意識に陥って、成長を拒みつづければ、決して受け取ることはできないということを心に刻みたいと思います。
前回のスクールで先生からもエルサレムのお話があり、私ははじめて「先生の愛をこんなにも受けて、私は先生のために何ができるだろうか」と考えました。実際には今の私では何もできません。でも「私に何ができるだろうか、何をしたら大きな愛情で包んでくれる先生を喜ばせることができるだろうか」と考えることは私にとっては大きな視点の変換でした。
今回のブログを読んで、みどりさんは先生の痛みを感じ、先生の愛を受け取って、ご自身の成長につなげてこられたのだなということがよく分かりました。みどりさんの在り方から本当に多くのことを学ばせていただいてます。ありがとうございます。
キリストや先生、みどりさんの痛みや想いについて、私はほんの一部分も理解できているかもどうか怪しいほどの意識段階にいるのだろうと思いますが、先生やみどりさん達に見守られていることは本当にありがたいことだと思いました。
先生から与えていただいている愛情や環境に感謝し、相手のことを考えられる人間になれるように意識的に生きていきたいと思います。